ケツァールの時々日記

米寿の母が胃癌になった!治った!の話から始めましょう

敬意を表する 最近感じた事

今年は教会の係が色々あって忙しくしています。

春にとある役を頼まれ引き受けたのですが、頼んだその役の長の教会員の言い方が気になりました。

「1年だけつなぎに引き受けて欲しい」

 

『あなたは器ではないけれど、他に適当な人がいないから』

言葉の端々に、こういうニュアンスを感じました。

まあ、”器ではない”というのは事実なのですが(笑)

『1年だけつなぎに引き受けて』

は、いかがなものでしょう。

 

1年なのか2年3年と続くのかは、彼女の判断ではなく、教会員の判断に委ねられます。委ねる事にします。

 

この何ヵ月、それなりの役目(頭脳労働ではなく肉体労働(笑))を果たしてきたと思うのですが、彼女から見ればどうだったのかな?

臨時の会の招集がかかったのですが、外せない用事が入っていて、彼女に欠席の連絡をしました。

彼女、軽く

「全然かまわないよ。牧師には私から連絡しておくから。」

まあ、会議に出ていても何の発言もできない存在なので、当然ではあるのですが、

少し残念がる雰囲気位出してよ~

と思ってしまったのでした。

 

相手に敬意を表する

って大切ですよね。

こう言う私も、誰かを軽んじていないだろうか

振り返ってみませんと。

 

あゝ

絶交を言い渡された友人に対して、そういう事があったのかも

人に踏まれた足の痛みは忘れないが、人の足を踏んだその人の痛みは分からない という事

 

教会員同士でもいろいろあって、

こんな事言われて傷ついた

あんな事言われて腹が立った etc.

クリスチャンは聖人君子なんてことは全くなくて、皆さん善意が出発点だから余計始末に負えないところがあるのです。

私の愚痴もその類でしたね。

自分が軽んじられていると感じる時、やはり愉快ではありません。

誰かが軽んじられる話を聞くのはもっと嫌。

私ができるのは、話を聞いてある事だけですが。

 

 

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